違う方向の理解。
夫は仕事をしてる=愛情
養ってる=愛情
仕事してる=家長が偉い
専業主婦=いつでも休める気楽な立場
育児=女の仕事
こんな感じです。
何度話しても、主婦も育児も大変だとは理解が得られなかった。
専業主婦というなら仕事として、文句言われないだけしろと言う。
私の気持ちは、手伝わないなら文句言わないで。
試行錯誤しながら、むーちゃんを見ながらご飯の準備は大変。
だから、せめて作ったものを今お腹すいてないからいらないと言わないでほしい。
机が汚れてると思うなら、口や態度に出さずに拭いてほしい。
これが同僚のやる仕事であるなら、そこまで態度に出さないだろう。
私がすることが仕事と言うなら、お互いの仕事内容は違うのだから言わないのが良い。
後からお腹すいたら、何時でも作ってくれと言う。
そこは、共同生活しているのだから理解してほしい。
大人二人だけの暮らしなら、自由も今よりあるだろう。
しかし、私たちは子供を育てる選択肢をした。
少しの我慢と、少しの妥協点は合わせていかないと生活がまわらない。
でも、今日思いました。
夫も私も、相手が理解できないことを理解するしかないと。
どっちも、大変なんだ!自分は頑張ってると言いたいわけだからね。
だから、どっちも心では自分は頑張ってるとプライド持ってたら良いよ。
表にだすから、喧嘩になるんだよ。
私なら思う、思わないもある。
自分基準ってのが、誰にでもあるわけです。
掃除の加減も、育児やってると思う加減もそれぞれに違う。
仕事していることが愛情と思う夫に対して、育児の協力が愛情に感じる私だっている。
仕事しなきゃ生活出来ないのは当然。
育児する人がいなけりゃ、仕事へ行けないのも当然。
どっちが何をやらないにしても、今の生活は成り立たない。
お互いの言い分はあって当たり前なんだけど、理解できないことも理解し合わなくては共同生活ってのは出来ないようになっている。
ここは譲れないのはあるだろうけど、心の中でケッと思って。
顔は笑っていると、そのうち心も楽しくなって笑えてくるよ。
むーちゃんが子供を育てる選択肢をするかわからないけど、祖父母になってむーちゃんの協力をすることが私の夢です。
もしくは、むーちゃんが疲れたと言えばいつでも美味しいご飯を作って愚痴でも聞いてやれるおばさんになっていたいです。
そういう、歳の重ね方をするのが私の夢です。
おばさんになったむーちゃんも見ていたい。
夫と喧嘩をして顔を合わせたくないときもあるけど、話していてたのしいときもある。
そういう、ちょっとした楽しさを共有できる人はなかなか居ない。
むーちゃんの成長を同じだけの気持ちで喜び合える人も、夫しかこの先もいないと私は思います。
だから喧嘩して顔を見たくないほどの気持ちになっても、少しづつ気持ちの整理をしていつの生活へ戻っていきます。
これだけは譲れないとは思っていても、他では気が合うのかもしれない。
まだたかが数年、一緒にいるだけでお互いのことを語れるほどの成長には数十年かかると思う。
歩幅が合ってるようで、必死に走ってるだけなんだから。
必死にならずとも、呼吸するように自然に感じらるまでは時間がかかるのも自然だと思う。